ブックハウスひびうた 本の紹介第三回 『走れメロス』

『走れメロス』 太宰治 著 偕成社

 

メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の王を除かねばならぬと決意した。

 日本で一番有名な小説の書き出しの一つかも知れません。

 物語の内容は、ご存知の方が多いでしょう。

 村の牧人・メロスが友人の住む町・シラクスを訪れると、住人たちが暴君ディオニスの横暴に苦しんでいることを知ります。王に抗議するため城を訪れたメロスは、捕らえられ、死刑を言い渡されます。妹の結婚式を控えていたメロスは、必ず戻ることを条件に三日間の猶予を願い出て、不在の間親友・セリヌンティウスを身代わりに遣わすよう提案します。三日目の日没までにメロスが帰らなければ、セリヌンティウスはメロスの代わりに貼り付けにされて殺されるというのです。村に帰って妹の結婚式を挙げたメロスは、友の命を救うため、町に向けて走り出します。

 友情と信頼の勝利をうたった名作で、読んだ後はさわやかな感動が胸に広がります。

 多くの人に長年愛されている理由を、改めて考えてみました。

 

①王とメロスは表裏一体?

 この小説では、正直で誠実な青年・メロスに対立する存在として、疑い深く不信に凝り固まった王・ディオニスが登場します。一見、メロスと王とは、相容れない正反対の存在に思われます。メロスの信実が王の不信に打ち勝つという結末は、善が悪に勝つという昔ながらの物語の構図を忠実に守っているようです。

 しかし、この物語の根底にあるものは、そんなに単純でしょうか。

 読むほどに、メロスと王は、同じ人間の中に同居する、相反する心を象徴しているのではないかと感じます。

 小説の冒頭においては、メロスと王はそれぞれの立場をはっきりと表しています。王ディオニスが「人を信じることができぬ」のと同じくらいの揺るぎなさで、メロスは「人の心を疑うのは、もっとも恥ずべき悪徳だ」と言い放ちます。

 それに対し、王は「疑うのが正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。」と返します。王は生まれつき人を信じられないのではありません。今まで生きてきた中で、人間は信じられないものだということを学んだのです。「人の心はあてにならない。人間は、もともと私欲のかたまりさ。信じては、ならぬ」という言葉は、どこか自分に言い聞かせているようにも聞こえます。ここでまず、王の「不信」が固定されたものではなく、信→不信に移り変わったのではないかということが想像できます。

 メロスはこの王の言葉を一笑に付します。この時点では、メロスの信実に対する信頼には陰りが見られません。一度村に帰った際も、メロスは妹に対して「おまえの兄の、いちばんきらいなものは、人を疑うことと、それから、嘘をつくことだ。」と、自らの誠実さを再確認するような発言をしています。このまま何も起こらなければ、彼は最後まで一貫した正義の人であり得たかも知れません。しかし、物語は彼を不信の瀬戸際に追いやります。

 それは、荒れ狂う河を泳いで超え、山賊に襲われた後で、走ろうにも体がまったく動かなくなったときのことです。このままでは間に合わない。彼はさんざん嘆き苦しみ、殺されるセリヌンティウスとともに死のうとも考えたあとで、次のように考えます。

もういっそ、悪徳者として生きのびてやろうか。…正義だの、信実だの、愛だの、考えてみればくだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。

 この台詞は、冒頭に登場する王の言葉といわれても、違和感がないのではないでしょうか。このとき、メロスが信条としていた正義と信実への志向は消えかかり、彼の心が不信と裏切りに傾いていることが表れています。揺るぎないと思われた彼の正義も、絶対ではあり得ず、ともすれば王と同じ心情に陥ることもあり得るのだということがわかった瞬間です。

 その後休息により気力を取り戻したメロスは走り切り、処刑の間際に親友のもとへたどり着きます。その姿を見た王は、抱き合って喜ぶふたりに声をかけます。

おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。…どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。

 ここで王が言う「おまえらの仲間」とは、信実と愛の心を持つ仲間ということだと私はとらえました。実証を目の当たりにしたことで、王の心は信実への信頼を取り戻しました。王の中で、今度は不信→信への変化が起こったといえます。

 上記で見てきたように、人の心は決してひとつの色で彩られているのではありません。正義の人メロスも不信に陥りますし、不信にとらわれた暴君ディオニスも、信実に目を開くことができます。メロスとディオニスが同居し、その時々で別の顔が表れる。人間の心とは、そのようなものかも知れません。

 

②証明することの大切さ

 この短い物語の中で、印象的に何度も登場する言葉があります。

 「見せてやる」、というのが、その言葉です。

 物語の冒頭で対立するメロスと王は、お互いに自分の考えが正しいことを周囲に対して証明することにこだわります。

 メロスからセリヌンティウスを身代わりとする提案を受けたときに、王は次のように考えて承諾します。

 「人は、これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代わりの男をはりつけに処してやるのだ。世の中の、正直者とかいう奴輩にうんと見せつけてやりたいものさ。

 メロスが三日目に戻らず、セリヌンティウスが殺されれば、「人は信じられない」という王の信条が人々の眼前で実証されることになります。目の前の無礼者に自らの思い上がりをわからせてやるには、それ以上の手はありません。

 メロスはメロスで、村からセリヌンティウスの待つ城へ向かう朝、「きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう」と決意します。メロスにとっては、期限までに城にたどり着いて約束を果たすことが、信実が存在するということへの証明になります。王に自分の間違いを認めさせるには、実証を見せるしかないのです。

 「見せてやりたい」という言葉が最も切実に響くのは、メロスが走れなくなった場面です。彼は自分の意思に反して動かなくなった体を嘆き、「できる事なら私の胸を断ち割って、…愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい」と叫びます。自分には走るのをやめるつもりはまったくなかった。胸を割って心臓を見せることができれば、この心に変わらない愛と信実が宿っていることを証明できるのに。

 メロスの気持ちはわかりますが、心臓を開いてみたところで、愛と信実の存在を人の目に見せることはできません。また、いくら叫んで言葉を重ねてみたところで、人に見えるのはただの「言葉」でしかありません。メロスの心に宿るものを人々の目の前に実現させるには、ただひとつ、彼の行動のみにかかっているのです。

 結局彼は走り切り、信実が存在することを誰の目にも明らかなように証明しました。メロスの行為の結果は王の心までも動かし、頑迷な王に不信を捨てさせることもできました。

 人の心を動かすために必要なのは、心に思うだけでなく、証明して見せること。そして、何かを証明するためには、行動して結果を残すこと。

 メロスの勝利は、この大切な真実を私たちに教えてくれているように思えます。

 

③何のために走るのか

 メロスは妹の結婚式の翌日シラクスに向かって走り出す折りに、自らに自分が走る理由を言い聞かせます。

私は…殺されるために走るのだ。身代わりの友を救うために走るのだ。王の奸倭邪智を打ちやぶるために走るのだ。

 まったくその通りであり、誰にも文句のつけようのない立派な理由です。しかし、その理由は、メロスをセリヌンティウスのもとへまっすぐ運ぶものではなかったようです。

 メロスは自分が何のために走るかを納得し、自らを奮い立たせて走るのですが、それでも「メロスはつらかった。いくどか立ち止まりそうになった」。となり村についたときは、到着までに時間の余裕があることを考慮し、ぶらぶら歩いて行くという余裕の姿勢を見せてはいますが、前述の文章を読むと、無意識のうちに早く着きたくなくてゆっくり進んでいたのではないかという気もしてきます。

 もちろん、いくら正義感があり勇敢だからと言って、メロスだって人間です。町にたどり着いたら殺されることがわかっているのだから、いくら親友が命をかけて待っているからといっても、足のすくむような思いがないわけではないでしょう。

 使命を思い浮かべ、度重なる困難にも立ち向かいますが、ついには走れなくなります。そのときにも、メロスは自分が走らなければならない理由について、何度も自問自答します。しかし、いかなる鼓舞も彼を再び立ち上がらせることができません。力尽きて寝てしまい、目が覚めた時に、彼は体力と共に希望を取り戻します。そのとき、彼の胸にまったく新しい走る理由が目を覚ますのです。

私は、信じられている。…私は、信頼に報いなければならぬ。

 この理由に気づいたメロスは、わき目も降らず、一心不乱に町を目指すようになります。セリヌンティウスの弟子、フィロストラトスがあきらめるよう諭しに来た時も、メロスは次のように答え、フィロストラトスを振り切り、走り続けます。

信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題ではないのだ。…私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいもののために走っているのだ。

 結果が問題なのではない。とにかく友に信じられている以上、自分は走る以外に道はないのだ。その執念が、ついにはメロスを日没前にセリヌンティウスのもとへ導くことになります。

 最初いくら考えてもなかなかメロスを走らせることのできなかった理由と、メロスをセリヌンティウスのもとへたどり着かせた理由とでは、何が違うのでしょうか。

 それは、前者が具体的な結果を伴う理由であるのに対し、後者は信念の理由だということではないでしょうか。

 具体的な事柄は、いくらでも覆すことができます。たどり着いても、自分と親友二人とも殺されてしまうかも知れません。王の頑迷な心も変わらないかもしれません。

 しかし、最も困難なときにたった一つよりどころにすることができるものがあるとすれば、それは自分が何を信じているかということなのではないか。メロスは、「信実の存在」を信じていた。セリヌンティウスに信じられていたことだけは、心の底から信じることができた。だからこそ、その一点に全てをかけることで、最後まで走り切る気持ちを持ち続けることができたのだと思います。

 メロスを走らせた「もっと恐ろしく大きいもの」というのは、それこそ信実が存在することを証明しなければならないという使命感だったのではないでしょうか。

 

 偕成社文庫版『走れメロス』には、表題作の他、著者が女学生の気持ちになり切って、みずみずしい若者のきもちを描いた「女学生」、富士山のふもとで暮らした穏やかな日々について著した「富嶽百景」など、太宰の代表作が収められています。太宰治の入門編として、ぜひ読んでいただきたい一冊です。

ブックハウスひびうた 村田奈穂