第1回日々詩書肆室読書感想〇〇

インパクト秋田犬特別賞 受賞作品

どさんコーン「キャッチャー・ベン・ザ・ライ」

この世には2つの場所がある。「トイレがある場所」と、「トイレがない場所」__

 

 朝井リョウさんの3作目のエッセイ『そして誰もゆとらなくなった』におけるベストフレーズといえ

ば、間違いなくこれだろう。

 

 それくらい響いた。少なくとも、私には。

 

 ホールケーキの独り占め、浮きまくったダンスレッスン、滝行などなど… …。3作目にしてなお勢いは

衰えず、チャレンジングなエピソードが多い今作。

 

 そのなかでひときわ(茶色に)輝く、ポラリスのような存在。自分のゆく道のつねに先に在るもの__

あたりまえのようにそれは存在している__

 

 それこそが、全エッセイを通して描かれていると言っても過言ではない、「胃腸が弱い」という事実に

他ならない。

 

 胃腸が弱い。

 

 ストレスのストはストマックのスト、いやそんなことはないけど、胃の状態が我々に及ぼす影響は、計

り知れないものがある。

 

 どうしても受かりたいテスト。会社の命運を左右するプレゼン。聞いてるだけで胃が痛くなるが、実

際、胃が痛むときは楽しい考えなど浮かんでこない。

 

 真面目な話、腸内環境が脳に影響を及ぼすという研究結果もある。幸せを感じさせるホルモンであるセ

ロトニンは、腸で作られる(らしい)。

 

影響は日々の意思決定にすら及ぶ。

 

 便意というものは、時間や場所を選んでくれない。映画のクライマックスだろうが、自分の企画した飲

み会の途中だろうが、おかまいなしなのである。(上記の例は、朝井リョウさんの実体験である。)それ

故に、つねに不足の事態を想定して動く必要がある。

 

 日常とは切っても切り離せない、だからこそ、エッセイという舞台はやつらの独壇場、晴れ舞台。いや

むしろ切り離す方が不自然では!?

 

 なぜここまで固執するのかというと、私も彼と同じだからである。彼と同じ、トイレのある世界を求め

彷徨う流浪の旅人__

 

 そう。

 私は膀胱が弱い。

 

 私の膀胱は、「トイレに行けない」という状況において、水にさらされた和紙のごとく脆い。

 

電車の中がよい例だろう。乗車中の尿意は、こだまやひかりを遥かにしのぐスピードでやってくる。

 

 トイレいけばいいじゃん、という声が聞こえてきそうだが、そういうわけにもいかないんである。

 

 私には耐えられないのだ。高速で移動する乗り物の中で用を足すという事実が。倫理的に受けつけな

い。

 

 そういうわけで、電車の中では常に気を張っているし、映画館では必ず端の席を予約する。花火大会で

はトイレの位置を必ず確認し、可能な限り近くへ陣取る。でかめの公園でテントを張るときも同じく。

 

 これらの涙ぐましい努力をもってして、やっと日常は守られるのである。

 

 私は朝井リョウさんのエッセイから、実家のような心地よさを感じた。大っぴらに言えない、かつ共感

を得にくいテーマなだけに、仲間を見つけたときの喜びはひとしおである。

 

 そもそもフィクションにおいては省かれがちなテーマだ。

 

名家の令嬢が、折檻と称して物置に閉じ込められるだとか、少年漫画でよくある時間の流れが異なる空間

での修行シーンだとか。

 

 私は思った。

 

「トイレは!!!???」(でかめゴシック)

 と。

 

ひとたびそう思ってしまうと、物語への没入は難しい。

 

 一晩中続く幽霊とのカーチェイス(止まると死ぬ)が出てくる話を読んだときは、「いつトイレに行く

んだ… …!?」と違う意味でハラハラした。

 

 分かっている。大多数の人間は、健全な身体に健全な膀胱を宿していることくらい。

 

 だがしかし、気になってしまうのだ。

トイレの存在が。

 

 そんな業を背負った私を、このエッセイは優しく包みこんでくれた。少数派の意見が尊重される、本と

いうメディアならではの恩恵だと思った。

 

 エッセイが好きだ。自分との共通点を見つけては、それがニッチであればあるほど嬉しくなる。自分の

見ていた世界がだれかと共有し得るほど広いだなんて、本を読まなければ気づかなかっただろう。

 

 既に透けて見えるかも知れないが、きれいっぽいことを言って切り上げようと思っている。広げた風呂

敷の畳み方とか分からないし。お弁当にでもしません??

 

私はこれからも、本との素敵な出会いがあればいいな、と思っている。おすすめの本がある方、ご一報下

さい。

 

ここまで読んでいただいてありがとうございます。