古びた木組みにすりガラスの窓。そんなレトロな空間に、打ち付ける風などの環境音と、喫茶の作業音だけが響く…そんななかで僕は、期間限定の「さくらこっぺ」パンをいただいていた。桜の葉のさっぱりした風味がきいた餡に、ホイップクリームのダイレクトな甘さ、そこに濃厚なクリームチーズがいいアクセントになっている…。僕は、心の内でつぶやく。
(…めっちゃおいしい!)
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いなべ市にある、廃校となった木造校舎「桐林館」の一室では、「桐林館喫茶室」、通称「筆談カフェ」が運営されている。音声や会話を完全にオフにしたうえで、ノートでの筆談はもちろん、ジェスチャー、表情、できる方は手話などでコミュニケーションをとるという、独特なカフェだ。
そんな「筆談カフェ」は、この夏に五周年を迎える。そして、その節目に際して、何か形あるものを残したいということで、本を出版することを構想している。今回僕たちがここを訪れることになったのは、出版業を行っており、またコーヒーの取引先としてつながりもある僕たち「ひびうた」と、ぜひこの件に関して打ち合わせがしたい、という依頼が来たからだ。
久居から高速で一時間ほどかけて到着した桐林館さん。外観はまさにレトロな校舎。さらに、グラウンド周辺には多くの桜の木が植えられていて、あいにくの雨模様なのが残念に思えるほどの花盛りでもあった。僕たちは雨に打たれながら、校舎に入る。

「今日はありがとうございます。ほんとに足元の悪い中…」
出迎えてくれたのはオーナーの夏目さんだ。彼女に率いられて、喫茶室に向かう僕たちの前に広がるのは、イメージ通りの戦前の木造校舎といった光景だった。木格子に暖色の灯かり、焦げたような色合いの床はどこか柔らかい雰囲気を感じさせ、また歩くたびにきしむ床の音とが合わさって、非常に古めかしい雰囲気だ。外観からももちろん感じてはいたのだが、中に入るとより、レトロさというものがさらに強く感じられた。時代を超えたようでワクワクする。お互いに挨拶交じりの会話をしながら喫茶室の前まで着くと、夏目さんは言った。
「では、打ち合わせまで時間があるので、ぜひ喫茶室のほうでゆっくりしていってください。ただしここからは、声は禁止ですよ…」
ガラガラと喫茶室の扉を開く夏目さん。こうして僕たちは噂の筆談カフェを体験させてもらう運びとなったのだ。

案内された席には、メニュー表とオーダー用紙、それとノートが置いてあった。なるほど、このノートで筆談するらしい。
パラパラっとノートをめくってみると、そこには僕たち以前にここを訪れた人たちのやりとりが残っていた。「何頼む?」といった会話から、文字だけじゃない絵しりとりや絵文字でのやりとり。あるいは、筆談カフェさんへの「ありがとう」を伝えるメッセージなども見ることができた。その中に、僕の目を特に引いたものがあった。
『顔でしゃべるな、筆談しろよ』
片方が少し変顔やしょぼくれた顔でもしたのだろうか、双方の仲のいい関係性がどことなく伝わってくる。
こうしたものを見ていると、なんだか一人で来たとしても孤独を晴らしてくれるような、生の息遣いのようなものを感じる。文字として残っていることで、会話している人たちのその場の情景も見えるようだ。人と人とのつながりというものを味わうことができるように思う。
ノートのログもそこそこに、メニューを頼む。早速僕たちも筆談。
『皆さんメニューどうします?』
すると、ドリンクは異なるが、軽食は一様にみな期間限定の「さくらこっぺ」を頼もうとしていた。期間限定。やはり気になるものだ。
ここではもちろんオーダーも無言だ。あらかじめ用紙に書いて、店員さんに手渡しをして、会計をする。
しかし、筆談メインというこのような場だからこそ感じるのだが、普段接している人であっても、改めてその文字を見ると、その一文字一文字にも個性が出ていることに気づく。そこには、パソコンの打ち込みなどでは見いだせない、一種の表情のようなものも感じられるというのは、普段ではなかなかわからない新たな発見。なんだか面白い。

しばらくすると、注文が静かに届いた。僕が頼んだのは、先ほどの期間限定コッペパン「さくらこっぺ」と、店員さんのおすすめ「ホットミルクティー」。
いただきますをし、まずはさくらこっぺを一口。
(めっちゃおいしい…!)
第一の印象としてまず思い出したのは、桜餅だ。ホイップクリームの下に、桜の葉の渋くさっぱりした風味がきいた特製の甘い餡が詰まっている。これのおかげでホイップが全くくどくなくなっている。しかも、食べ進めると、濃厚なクリームチーズが、全体の味にコクを増してくれている。とてもおいしい。もっちもちのコッペパンとまた合うんです、この甘い餡たちが。
次に、店員さんのおすすめ、ホットミルクティーをいただく。上部の滑らかな泡に口をつけると、閉じ込められていた紅茶の香りがふわっと抜け、同時にほのかな甘みを感じる。ミルクの濃厚さの中に、すっきりしながらも甘さを残す風味豊かな紅茶があわさって、とってもおいしい。
こうしてメニューを堪能していると、ともに打ち合わせに来ていた一人がノートに書いた。
『なんだか行為の一つ一つが丁寧になる』
行為の一つ一つが丁寧になる。僕はこれを見て思った。
きっとそれは、ここが僕たちの日常を脱して、自分自身へ意識を向けさせてくれる場所であるからだろうなぁ、と。
感覚をフルに活用し、効率や目的が追求される僕たちの忙しない日常では、きっと僕たちは自分自身のことをあまり顧みることはできない。しかし、このような会話を用いないという僕たちにとっての非日常な場、そしてそれが作り出す静けさは、自分の外にある何かに向かってがむしゃらに過ごしている僕たちの心を解きほぐして、自分自身への感覚を研ぎ澄ましてくれるのではないかと思う。自分の行為が丁寧になるというのも、こうして自分への意識というものが鋭敏になったからではないか、と僕は思うのだ。
忙しない日々を脱して、自分に意識を向けられる場所。僕にはそれはとても素敵な場所であるように思えた。
以上が僕の筆談カフェの体験レポートだ。今までになかった、新鮮な体験をさせていただいたように思う。
声を出してはならないという独特のルールの中だからこそ、人のつながりや温かさであったり、新たな発見といったものが感じられる、この筆談カフェこと「桐林館喫茶室」さん。皆さんもぜひ足を運んでみてはいかがだろうか。
桐林館喫茶室(筆談カフェ)様
〒511-0428 三重県いなべ市北勢町阿下喜1980
桐林館喫茶室さんの5周年記念本:制作進捗はこちら
2025年4月17日 古林
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