
ともにいるための作文講座—
高校の頃、国語の成績が比較的よく、そのある種の成功体験から、なんとなく文章を読んだり書いたりすることに興味があった僕は、興味本位でこの講座に応募した。
当日。正直なところを言うと、このような講座に参加することが初めてである僕は、とても緊張していた。そわそわした心を持て余しつつ、開始30分前ごろには会場に入っていたのだが、続々と集まってくる周りの人の多くも、当然ながら知らない人ばかり。さらに、すでに講師のアサノさんと知り合いらしき方もいたのもあって、
実は皆、この手の講座の手練れだったりするのだろうか…
という風に考えてしまっていたりもした。ともかく、何か自分がひどく場違いな気がしてならず、落ち着かなかった。
しかし、この懸念は、意外とそうでもないということが、すぐに分かった。講座始めの自己紹介では、初めて参加されるという方も多くいらっしゃったからだ。それに、文章が苦手という方から、すでに雑誌を作っているという方までいらっしゃった。ああよかった。開かれた講座なんだな、別に気兼ねしなくていいんだな、と僕は少し安心した。
(とはいえ、この安心によって、緊張もほどけ、自分の自己紹介はすらすらと言えた…という小説のような展開はなく、「あの」に「ええと」に、全くどもりっぱなしな自己紹介になってしまったのではあるが、そこは自分のあがり症をただ恨むだけである。)
そうした自己紹介の後、アサノさんは「ともにいるための作文講座」の趣旨を説明してくれた。「目の前の人の居場所とつながりを作る」というひびうたの理念から着想を受けた「ともにいるための作文講座」を、アサノさんは、「言葉」を根本的から考える講座にしたいのだという。言葉は、文字や声など様々なかたちがあり、ひととともにいるための手段となる。そして、とりわけ文章に目を向ければ、時代や場所すら超え、目の前にいない人ともともにいることとなる—そういった言葉というものを、掘り下げたいのだと。
しかし、それをどのようにして、講座として皆さんと実践していくのだろうか?その僕の疑問に答えるように、アサノさんは言った。
「用意した紙を見てください」
そういえば、僕たちの目の前には、事前に用意された二枚の紙があった。
「そして、事前に考えてきてもらった、『あなたが大切にしていることば』を、書いてください。しかし、ぜひともよく考えてみてください。本当にそれを大切にしているのか、実はほかに腑に落ちるものがあるんじゃないかと。そして、いろいろ考えたうえで、事前のものとは違ったもので思い付くものがあれば、そちらのほうを書いてください。どちらを書いてもかまいません」
自分が大切にしている言葉—これを考えてくることは、確かに事前課題として言われていた。しかし、それを改めてよく考えてくれとは、どういうことだろう?
「発表しなきゃいけないかもしれないから、とカッコつけたものにしなかったでしょうか?自分の腑に落ちたものに、なっていますか?」
そのように改めて疑問を投げかけられると、これでいいのかという迷いが生じてくる。確かに、カッコつけていたかもしれない。いわゆる座右の銘っぽく、それっぽいことを言おうとして、出来上がったそれを「まあこれでいいか」と安直に考えている節はあったのかもしれない。ああこれは、見抜かれてるわ…と思いながら、僕は考えを巡らせ、時に過去を振り返ったりもした。そうして僕は当初考えていたものとは違った言葉を書き、ペンを置いた。
僕が書き終わり、皆も書き終わり、しばらくの沈黙の後、次にアサノさんはこのように言った。
「では次に、先ほど書いた大切にしている言葉の下に、今度はここにあるもので、大切だと思うものを書いてみてください。」
ここにあるもので、大切なもの。僕はこの投げかけについて、即座も即座、30秒ほどで、これしかないと思うものを書いた。
こうして、僕たちの一枚の紙の前には、二つの言葉が並べられた。それはどちらも、大切なものとして見出されたものだ。
例えば、僕の場合はこう。
「疑う心の真ん中を知りたい」—これは自分が大切にしている言葉として。
「人との関わり。この状況」—これは自分の周りにある大切なものとして。
僕がこの言葉を大切なものとして選んだのか、その詳細は今は省くが、ともかく各々に大切なものが出そろった。

では次に何をするのか?答えはこうだった。
「さて、これで大切なことが出そろったと思いますが、今度はそのうちから一つ選んで、もう一枚の紙に書いてください。」
アサノさんは続けた。
「その紙は集めて、ランダムに配ります。そうしたら、皆さんはその配られた紙に書かれた言葉を見て、ほめてあげてください」
ほめる、逆にほめられもする。しかも自分が大切にしていることを。それは普段なかなかしないことだろう。なんだかこっぱずかしさが、心をほんの少し揺るがした気がした。
僕はどちらを書くか、案外すんなりと決まったのだが、悩んでいる人も多いように見受けられた。
そうこうしているうちに時間は過ぎ、紙が回収され、混ぜられ、再び皆に紙が行き渡った。
僕に配られた紙には、こう書かれていた。
『縁起』
縁起…物事が起こっている原因とか、そんな意味だっただろうか。
僕は目の前に書かれている縁起という言葉に対して、思いを巡らせる。
縁起をほめる…難しい…縁起…物事がそうあるところの因縁的なもの…縁起がいい…幸運…縁起を大事にしている人がいる?
考えているうちにも、他の誰かの大切なものを、皆さんはほめていた。
「自由」という言葉に自分の境遇や考え方を交えて話してくれた方、「あなたには力がある」という言葉に世界に何ができるのかという問いを重ねながら共感する方、「ともにいる人たち」という言葉が、紙の真ん中にドーンと書かれていて、その心意気がすごいと言う方など、様々だった。
もちろん、僕が選んだ「人との関わり、この状況」という言葉にも、「今この状況に、いろいろな考えや大切を持った人がいるのは、確かに素敵なことだ」という共感の言葉を頂いた。自分の考えが、誰かに届いて、コメントを頂けるというのは、なかなか嬉しいものがこみあげてくるんだな、と実感した。
そんな中で、僕はふと思い立った。この縁起という言葉が僕のもとに届いたというこの状況自体が、なんだか物語の一場面のようではないか、と。
たまたま集まった僕らの中に、「縁起」という言葉を大切にしている方がいて、その方が書いた縁起という言葉が、なんの縁起のすり合わせか、僕のもとに届いた。縁起縁起とやかましいかもしれないが、この状況に対して、縁起という言葉がずいぶんと結びついているよう感じたのだ。そしてまた、このこと自体も、いうなれば縁起がたくさん飾り付けられた木のように思われ、ずいぶんと縁起が良いように思われた。
要するに、縁起という縁起のよさげな言葉が、縁起を大切にしている人から何の縁起かたどり着く…この一連に、何か物語性を感じた、というわけなのだ。縁起のオンパレードだ。
僕の番がやってきた。そして、いまだ抜けない緊張に、相も変わらずしどろもどろになりながらも、縁起に関するこんな感じのことを言ってみる。
すると、ほかの人と同じように、僕にも拍手が起こった。嬉しさの照れと発表が終わった安心が半々になりながら、僕は軽く頭を下げていた。
皆の発表が終わると、アサノさんは口を開いた。
「皆さんありがとうございました。さて、今回皆さんには大切なものをテーマにいろいろとしてもらいました。
なぜこのようなことをしたのか、という話なのですが、
まず、私たちは大切なことを、自分の内側に探そうとしがちです。
勿論それもよいのですが、自分の外側にも、目の前の世界にもそれが落ちていることがある。
だから外に見つけてもらおうとしました。
そして、それが心に、腑に落ちるものであるのか、それを見つけてもらおうともしました。」
アサノさんは続ける。
「そうして自分と目の前のものから見つけてきた、腹の底からの大切なものというものも、自分だけではただの独り言です。
それを言葉にし、他者から感想をもらうことで、それはコミュニケーションになります。
また、自分の大切が、その感想によって誰かにまた大切にされると、そこは安心の場所になります。
そして、この安心の場所というものが、「ともにいる」場所、すなわち居場所の出発点ではないのかと…このように考え、今回は「ともにいるための作文講座」の第一回として、このようなワークショップを行いました」
人が大切にしているものを大切にするところから、居場所が始まる—
僕にはこの言葉が、とても大切なもののように思われた。
人はきっと、居場所なしにはいられない。とりあえず自分がそこにいてもいいと思える場所が、どうしても欲しいのだと思う。僕は、初めてひびうたに来ようと思った時のことを思い出す。とある事情で大学を中退し、息が詰まった毎日の中、スマートフォンに「居場所」と何気なく検索し、ひびうたを見つけた僕。
実際にひびうたを訪れてみた僕は、そこで皆さんに温かく迎え入れられた。そして足繫く通っているうちに、ひびうたは僕の中で何か欠かせない居場所になっていった。それはきっと、一人ひとりをおもんばかって、大切にする雰囲気があったからだと思う。アサノさんの言葉は、僕に深く受け止められた。
最後に僕たちは、自分が大切にしている言葉二つと、自分の大切にしている言葉が誰かに褒められたその感想とを、各々述べ合った。そこでは、最初のような緊張感は薄れ、お互いがお互いを大切にする居場所というものができていた気がした。
2025年4月8日 古林
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