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レポート:詩の講座『石の言葉、水の言葉』(第一回)


 

 僕たちの目の前に、石が配られた。川べりにでも落ちていそうな、手のひらサイズの石だ。それを、面と向かいの人と交互に手のひらに乗せ、感触などを確かめる。手のひらサイズでも、そこには少々のずっしり感があった。

 次に、僕たちはピッチャーから流れる水を両手で受け止めた。水はひんやりとしており、またしっかりと受け止めておかなければ両手の隙間からこぼれそうだった。

 今回僕が参加したのは、詩の講座『石の言葉、水の言葉』の第一回。テーマは「かけがえのなさ」。まずそこで僕は、石や水といったものを、改めて肌で体験していた。

 

 

  講師の古井さんは、この石水の体験が始まる前、こうおっしゃっていた。

「詩だけでなく、人生においても波及するような講座を目指していきます」

 詩ないし創作は、今までの経験や人生が反映されて出来上がることもある。一方で、書くなどの創作を通じて、人生を見直すこともある。だから、詩と人生とはつながっており、人生の中に生活があり、生活の中に創作があり、創作の中に詩があるというこの構造の中を、行ったり来たりするようなことが、詩の創作につながるのだと。そして、この人生とつながる詩などの創作は、かけがえのない「わたし」に深く潜っていくものなのだと。

 

 

 そんな考えを根底にして行われたこの詩の講座。そこで僕たちは、不思議と石や水を肌で感じる機会をもったわけであるが、古井さんはこれに関連して、まずはこの講座の概要、ないしこの講座はどのような視点から進めていくのか、ということを伝えてくれた。

 

 まず、言葉には二種類あると、古井さんは考えている。講座の題にもなっている「石の言葉」と「水の言葉」だ。古井さんが石水を肌で体験させた意図としては、その石や水が、物質的にどんなものであるかを、改めて皆さんに知ってもらいたかったためだという。それが、石の言葉と水の言葉の説明にもつながるからだ。

 

 では、講座の題でもある石の言葉、水の言葉とは、そもそも何なのか?

 

 まず石の言葉。石は固く、他の人の手のひらに移っても形を変えることはない。石の言葉も、このようなものだという。つまり、言葉としての単純な意味をあらわしているだけの、共通事項としてやり取りする言葉だ。「その机こっちに運んどいて」など、いわば忙しない日常にやり取りされる、普通の言葉だ。

 

 ならば、水の言葉とは?流動する水は、それが手で受け止められたとしても、十人十色の手の形によって、その時々、形を変える。しかも、同じ人の手に水を注いだとしても、厳密に同じ形には決してならない。とすれば、水の言葉とは、いわば水が手とおたがいに作用しあってその形を変えるように、言葉と僕たちとが双方向的に影響するような性質をもった言葉だ。

 例えば「机」といっても、それを受け止める人によってさまざまな意味を生じうるだろう。形状に着目する人もいれば、コツンと叩いた時の音に着目する人、あるいは「机といえばこんなことが~」と、個人の経験を思い出す人もいるだろう。この時の机の解釈や発生する意味のありかたは、石の言葉とは違い、水を受ける手が作り出すその水の形のように千差万別なのだ。そして、ここで前提されているのは、代わりのきかないわたしというものである。なぜなら、各々が異なるからこそ、生み出されるものも異なってくるからだ。

 

 このように、ただ端的な意味をあらわすだけの、ルール化され、定量化された言葉が石の言葉。人によってとらえ方が異なり、それによって新たな意味が生み出されていくような、かけがえのない私というものを前提とした言葉が、水の言葉、というわけだ。そして、詩というもの、ないし創作による表現活動というものは、もちろんおおむねこの水の言葉に属するものだ。

 

 そんな石と水の言葉であるが、古井さんは、今の世界は「石の言葉」があまりにも強くなっていると感じているという。

 ルールや定量化の石の言葉。それが大きな世界で、私たちは常に評価基準にさらされ、その評価との照らし合わせの中で、代替可能なものになっている。その中で僕たちは思う。「私って何」と。このような問いを出してみたときに、私たちの中にある「水の言葉」性、あるいは「かけがえのなさ」が大事になってくる。

 

 そこで、この講座では、このような石と水という視点を通して、言葉やわたしについて深く考えていきたい。そして、その中で、かけがえなさの発露としての詩の創作というものも、楽しんでいきたい。

 

 と、古井さんはこのように語ってくださった。

 

 


 

 さて、講座の前半では、以上のように講座の主題の説明や体験が行われたわけであるが、後半からは、実際に僕たちが詩を作ってみるというワークショップを行った。詳しく言えば、「水の言葉」の根底にある「かけがえのないわたし」にちなんで、「かけがえのなさ」をテーマにした一行詩を、参加者がそれぞれ作るということを行ったのだ。とはいえ、必ずしも一行でないといけないというわけではなく、二三行でもOKという形の、思いのまま書くといった雰囲気だった。

 

 作った詩の発表の場においては、その詩を作った背景にある話として、皆が思い思いのかけがえない体験を語ってくれた。

 各々の詩に合わせて、たとえば、今まで過ごした人との食事が、その人とつながる場だったことに気付いた話、家庭や仕事については話さない父とコミュニケーションをとった話、子供の成長を些細なことから感じて、それを見守ってあげたいという話…などなど、皆さん各々の人生が垣間見えるような話をしてくださった。途中、皆さんの話を聞きながら、古井さんや参加者の方々が、その話の感想を述べ合うような場面もあり、終始柔らかな空気感で発表は進んでいった。

 

 また、最後には、皆さんの詩をランダムに並べて、一つの詩として読んでみるということも行った。詩のそれぞれの文章は、もちろんそれぞれで完結しているものであるし、そして先ほど皆さんが語ってくださったとおりに、それぞれの背景もある。しかし、並べなおすことで、文章どうしがリンクして、新しい意味が浮かび上がってくるような個所もあった。これはまさに、「水の言葉」の双方向性を実感できる場面であったような気がした。

 

 

 以上が、第一回目の詩の講座のレポートとなる。僕自身としては、今まで詩というものにほとんど触れてこなかった初心者ではあるのだが、その詩というだけでなく人生をも見つめるという大きなテーマの講座でありながらも、終始穏やかな雰囲気の中和気あいあいと参加させていただけたので、とても楽しかった。また、この今の世の中の息苦しさを、言葉という観点から抉り出し、それを文明の最初の利器である「石」と重ねることで、「石の言葉」のありようとしてと表現するその連想力や表現力は、さすが詩人の方だなと思った。

 

 

 そんな詩の講座。次回は2025年7月27日(日)となる。単発参加も可能なので、興味がある方はぜひ参加されてはいかがだろうか。

 

 

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                                          2025年5月6日  古林