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junの支援日記 6

こんにちは。junの支援日記、6回目です。

 

暑くなってきましたね。でもどこか、今年は季節が遠く感じます。いつまでも3月頃のような気がします。

 

いわゆる夏らしいイベント…花火を見に行ったり海やプールに泳ぎに行く、というようなことは何年もしていない私でしたが、ちょっとしたお出かけの時に歩いた道で見かける植物の変化や気温や湿度、香りなどで、またそういう場所に行った人の話を見聞きして、季節を感じていたのかもしれません。

 

居場所で利用者さんとお話していた時「開いていたって、全ての場所に自分が行くわけじゃないんだけれど、お店が閉まっていたり閑散としていたりすると思うと寂しい」と言っていらっしゃる方がいました。よく分かるような気がします。

 

普段からお金を落としていないのに勝手なのは承知の上だけど、そうするしかない今の状況も理解はしているつもりだけど、自分が直接関わっていたり、困ったりしていなくても、寂しい場所や我慢している人、苦労している人たちが増えている、と想像するだけでなんだか、少しだけずっと息苦しい。(物理的にも、マスクで息苦しい…)

 

面と向かって自分に言われていなくても、世間の厳しい声、みたいなのを目にするだけでなんとなく嫌な気持ちにもなったりしますね。これはコロナ渦でなくても普段からそうかもしれません。

 

そういうのを「他人は他人で、自分は自分だから」とある程度割り切るのはもちろん生き方の術として大事だけれど、そう簡単にスパッと分けては生きられないことこそが、人として生まれてきた醍醐味という感じもします。

 

あんまり意識していなかったけれど、私たちは緩やかに世界とつながり影響し合いながら生きているんだな、という事を最近よく思います。それを思い出させたのがウィルスだったなんて、我ながら情けないのですが。

 

だから、これを読んでいらっしゃる方も、それぞれにどうか、ご自愛くださいね。私も私でご自愛します。なるべくでいいから、どうか無理せず元気でいてください。もしも機会があったらまた一緒にお話したりしましょう。

 

 

 

さて、今日は「境界線の話」をします。【「境界線の話」~私の考え編~】です。これはまさに私たちがつながって生きているからこそ起こってくる問題の話です。

 

 

ひびうたでは、様々な障がいや病気を抱えた方が利用者として働いています。

 

それぞれが抱えている課題も違えばそれへの向き合い方、その進み具合、自己理解の深さの程度など、全て一人一人が違っています。

もちろんそれらを一律に揃える必要もないし、また不可能です。

 

そこで時々問題になってくるのが、働いている人同士に起きる摩擦です。

 

「私の方があの人より、早いし、よくできている」

「あの人はいつも文句を言っている」

「自分は周りの人に比べると何も出来なくて申し訳ない」

「休憩時間に気軽に話せる友人のような人がいなくて残念だ」

 

皆自分なりに精いっぱい仕事の時間を過ごしているので、全て切実な思いです。わがままだ、気にし過ぎだ、求め過ぎだ、協調性がないなどという言葉だけではまとめきれません。

 

これらは不満として私達支援員に向くこともあります。不平等だ、配慮が行き届いていない、等。

 

特に、ひびうたでは今までも少し書いてきたように「問題をすぐに正さず、まずは観察し見守る」「本人の努力だけに任せず、環境の改善に力を入れる」「管理して言い聞かせるのではなく、あえて失敗もしてもらうことで自立を促す」といった事を普段からしています。

 

そのため「何故あの人は問題を放置されているのだろう」「あの人ばかり環境調整をしてもらっていて、いいな」「●●さん、困ってるみたいだけど、大丈夫かな」というふうに誤解や疑問、心配を感じさせてしまったりすることも少なくないと思っています。

 

 支援員や仕事仲間との信頼関係がきちんと出来ていないうちや、ひびうたの方針に慣れないうちはそういう気持ちが出てくるのが当然かもしれません。

 

ただこういった事はだいたいの場合「境界線」が曖昧なことにより起こります。

 

「自分がこう思っているのだから、他人も同じに違いない」

「私がこれだけ頑張っているのだから、周囲も同じようにやってもらわないと」

 

というような感情は、自分の領域を他人に広げすぎたことによるもの。

 

「上司に言われた事は絶対なので、どんなに難しくてもやり遂げなければ」

「自分がうまくできていないので、同僚が怒ったのだ。情けない、申し訳ないな」

 

というような感情は、他人の領域を自分のところにまで広げてしまったことによるもの。

 

多かれ少なかれ、誰にでもある感情ですが、作業所で働く人は境界線の曖昧さが際立っている方が多いかもしれません。

 

障がいや病気があることによってどうしても養育者に守られすぎてきた場合もあるし、逆に暴言や脅しを受け続けてしまった人、周囲の大人にも思い込みがあり価値観を押し付けられてしまった経験のある人などもいます。

そういった環境で生きてきて、自分がされたのと同じように他人に干渉的になったり、依存的になったりしてしまうことがあります。

 

さて、ここで必要になってくるのが当然「境界線を引くこと」になると思います。

 

・無理なことは、断る。

・お互いの責任の範囲を守り、それ以外は干渉しすぎない。

・他人の感情を、自分のせいだと引き受けすぎない。

・自分の気持ちを大切にする。

・自己肯定感を上げる。

 

などなど、境界線の引き方については色々あります。そういった「心を守る」ための対策を綴ったような本もちょっと探せばたくさんあります。

 

が、私がそれよりもまず大切だと思うのは、「人は境界線を侵してしまうものである」という事を知ることだと思っています。

 

生きていて、境界線を完全に守っていける人というのは、人が人である限り、一人もいないと思います。

私たちの暮らしや関心事が、自分の中だけで完結するということが有り得ないからです。

この世に生まれた時点でどんな形であれ必ず父と母がいて、最低限の衣食住をどこからか得ています。

だから感謝しよう、ということではなく、感謝できなくとも、世界がどうしてもそのように成り立ってしまっているのです。

 

話が少し大きくなりましたが、同じ空間で毎日一緒に仕事をしている者同士なら、なおさらです。

 

作業内容や目標、障がいや特性がそれぞれに違うといっても、同じコーヒーを作り、同じ空間で、同じ支援員から指示を受ける。

就業時間も休憩時間も基本的には皆が同じ時間、同じ場所でとる。

全員で一緒にミーティングをし、売上目標を共有しているひとつのチームでもあります。

 

そんな中で「他人のことは気にしなくていいから、自分のことだけやっていればそれでいい」「自分の気持ちだけを最優先に」という風に言っていくのはやや違和感があるし、厳密には不可能なことではないかと思います。

 

また、自分を大切に、自己肯定感を上げて、などと言われても、育ってきた過程でそのやり方が分からなくなってしまっているのですから、ハイ分かりましたと言って、簡単にできるものではありません。

 

何にせよ「気になる」という感性の部分をやめるというのは容易なことではなく、我慢させて言動のみを制限することになってしまうと、それはそれで結局こちらの考えで利用者さんの領域を侵しすぎてしまっていることになって、境界線を守る良さを伝える意味では本末転倒です。

 

では、どうすればいいのか。

 

現実のところは境界線を侵し合いながら、実践で学んで、自分も相手も心地よいラインを探っていくしかないと思うのです。支援員はその調整に入るくらいしか出来ないし、してはいけないと思っています。

そうしていく中にしか、自分や相手を大切にする事の本来の意味を実感できることはないのではないでしょうか。

 

 

 

【「境界線」の話~私の考え編~】でした。「ごめんなさい」の話の時と同様2回に分けて、次回に実践編を書いていこうと思います。

 

境界線、皆さんはどうですか?守れていますか?

 

私は、プライベートでも仕事でも振り返って考えてみると侵しまくり、侵されまくりです笑 その渦中にいる時には、気づかないものですよね。

 

境界線を侵すこと自体が悪でも正義でもなく、そういうことがあるのだなーと俯瞰で見れることがまず大事なのかもしれません。

 

 

「境界線」について利用者さんに意識して伝え始めたのがとても最近の事(これを書いている先週とかです)なので、本当にまだまだ研究中ですが、よければ次回もお付き合いください。