こんにちわ。支援日記が今日で5回目になりました。
反響、というほどでないですが時々感想などを伝えて下さる方がいて、うれしく感じています。
文章にすることで自分の支援のあり方を確認することになり、改めて思いを強めたり、見直したりすることができています。
ひびうたや、ひびうたの珈琲について知ってもらいたいという気持ちで始めましたが、私自身のためにすこぶるいい作業だと感じています。お付き合いいただきありがとうございます。
ひびうたは数年前にできた小さな作業所で、今まで関わってきた利用者さんやその多様性の方向の数はまだそれほど多くはありません。
さらに私自身が支援員としても人間としても未熟で課題だらけですので、書いていることが誰でものお手本になることはないと思っています。
私のリアルな成長日記だと思って、生暖かい目で読んでいただけたらと思います。
さて前回、「ごめんなさい」の話~私の考え方編~を書きました。今回は「実践編」です。
「考え編」はある意味、こうありたいという私の理想です。
それを実現していくには自分の技量の開拓が必要で、まだまだうまく出来ていないなあ…というのが正直なところです。
それでも、約2年ほど就労支援に関わってくる中で、見えてきたおよそ普遍的なもの(ひびうた内では)、みたいなものはあります。なるべくそれを書いていこうと思います。よろしくお願いします。
「ごめんなさい」を私は撲滅したい訳ではありません。が、不要な謝罪、過剰な謝罪は削らしてしていこうと決めています。
「ごめんなさい」の価値というか、本来の意味を正しく伝えられるようになるためにも、それがいいと思っています。
塩分や糖分に例えると分かりやすいかもしれません。なんでも摂りすぎはよくない。
支援日記を書いてみて改めて実感しているのが、「中道をとること」や「バランスを見る」ことに自分は重きを置いているのだな、ということです。
とはいっても平均的にしようとか何でも間をとっていこう、というのとはまた違っていて。
一般的、常識的という意味での「真ん中」でなくてもいいのですが「お互いが心地よい重心のとりかたが何となくあるよね」といったところです。
というわけで、私の中ではいつでも「ごめんなさい」削減キャンペーン実施中です。
私が「ごめんなさい」を減らすためにしていることを、箇条書きにしてみると、こうなります。
1.そもそも改善すべきことかどうかの見極め
2.課題の整理をする
3.しくみの改善をする
4.1~3を繰り返す
1番目の「そもそも改善すべきことかどうかの見極め」についてまずは考えていきます。
問題とされるような事が起きた時、まずやっておいたほうがいいな、と思うのはそもそもこれは問題か?謝ってもらうべきことか?という問いを私自身が自分に投げることです。
今まで生きてきて作られてきた自分の価値観や、通常の「一般常識」みたいな物差しで、私達は物事を判断しがちです。
私もつい「それはダメ」と反射的に注意してしまうことあります。支援員になりたての時は、特に多かったような気がします。
「ダメなもんはダメ」と言うしかないこともあるにはありますが、いったん常識を取っ払って、「変えていくべき課題かどうか」ということに向き合います。
例えば…
前回登場したAくんは、障がいの特性なのか理由は不明ですが、時々作業中に一定時間、自分の右手を見つめて止まってしまう時があります。
「正しい」私が「作業中だよ、よそ見しない」などと言ってしまいそうになりますが、そうすると「ごめんなさい」が発生してしまいます。少しこらえて観察をしてみます。
よく見ていると、右手を見てはいるが、基本的には左手で問題なく作業できている。止まっているのは数十秒で、作業のスピードや精度に概ね問題ない。
そしておそらく「見たい」わけではなくて、なぜかどうしても「見てしまう」。
また、本人に右手を見てしまうことについてたずねてみると、最初は注意されたと思って「見てないです」と否定しましたが、「怒ってないよ、正直なところを聞かせて」と言ってみると、見てしまうことがあるのを認め、できればそっとしておいてほしいということも教えてくれました。
こちらの感じている課題と、本人の感じている課題に相違がありすぎた場合、だいたいうまくいきません。
本人が課題と感じていないのに課題に決めてしまうというのは、簡単に言ってしまうと「やりたくないのにやる」ということになり、どうしてもスムーズにいきません。ミスした場合には「謝りたくないのに謝る」ということになるわけです。
なるべく同意をとって取り組んでもらいたいので、ここの確認と対話は大切だと思っています。
結果として利用者さんの希望する選択をできない時もありますが、それでも対話があるとないとではその後の関係や効率に大きく差があると感じます。
逆に本人が課題として取り組んでいきたいのに、こちらがそれを無視して「そのままでいいよ」と簡単に言ってしまうのもまた、違うのではないでしょうか。「気にしなくていいよ」と言われても、当人にとってはそれが最大の困りごとだったりするので、利用者さん自身が感じていること、というのを見逃さないようにしたい。
これも、どちらかと言うと楽天的な私は和ませているつもりで「気にしなくていいよ」と言ってしまうことが多いのですが、最近はなるべく気をつけています。
結果として…、右手を見てしまう件に関しては「作業に支障がない限りは、見守る」という事に決め、本人にもそう伝え、今もこれを書いているすぐそばで、そのまま作業してもらっています。
この場合、要は「このままにしておく」というのを決めただけのことです。(笑)
が、このように観察・考察・ヒアリングをするという過程を踏むことで支援員も利用者も安心して仕事ができると感じています。
次に、2番目の「課題の整理をする」についてです。
一番目の段階で「改善すべきだ」と判断したら、二番目に進みます。
改善していくためには、何がつまずきの原因になっているのか、これまた「観察」が大切になってきます。
例として…
利用者のBさんが、焙煎前にコーヒーの選別をしている際、床に落ちてしまった生豆を捨てるのが嫌だという事が発覚したことがありました。
発覚、と書くには訳があって、ルールとして「(商品なので)床に落ちた豆は、捨てる」と決めていたのにBさんがコソコソと落ちた豆を私にバレないようにこちらを確認しながらスキを見て拾い集め、そっと戻そうとしているのを私が見つけたからです。笑
(Bさんにとってはバレないようにしているつもりだったと思うのですが、割とその一部始終を私は何度か目撃しました。笑)
こちらもよくある「正しさ」で反応するならば「ルールを決めて伝えたよね?守ろうね。しかも隠すなんて…良くないことだよ」となり「ごめんなさい」を言わせることになっていくのかもしれません。
ここで考えるべきは「何がBさんをそうさせるのか」ということです。それが解決されない限り、問題は繰り返されます。
話を聞いていくとBさんは「落ちた豆がもったいない」と思っていることが分かりました。
なるほど確かに、床は毎日Bさん自身が掃除もしていて、そう汚れていない。落ちたらすぐに拾っているし、その後豆は焙煎すれば加熱もされることになる。理論としてはある程度筋が通っています。
けれどルールとして決定したという事実は理解していて、それならば見つからないようにしようと考えたのでしょう。
それが好感が持てる行為かどうかはさておき、自分の考えとルールが相違した時に相談できないという課題も含め、それがBさんの現状です。
また、納得がいかない時には相談して解決しよう、というところまで導けていない私の支援の実力不足とも言えます。
(本人には理由があると思いますが)こちらからすれば突拍子のない言動に定評のあるBさんですので、今までの上司や支援者に理解されず、分かってもらうより隠れて好きにやったほうが楽、となっていった経緯もあるかもしれません。
こちらの要望も整理が必要です。なぜルールを守ってほしいのか。
「すぐに見て分かる汚れがついていなくても、商品としてお客様に届けるものなので、衛生的にも心情的にも、落ちた豆は入れたくない」
この思いをBさんに話すと、うなずいてはいましたが「やっぱりもったいないと思う、気になる」というのが彼の正直な気持ちでした。
次に「しくみの改善をする」です。
話をした上でBさんの「もったいない」という気持ちは変えられない部分だと判断したので、しくみのほうを変えます。
これはなかなかいい案が浮かばず悩みましたが、他の支援員にも入ってもらい、「落ちた豆は、拾ってきれいに洗った後に焙煎し、無料で飲める居場所のコーヒーとして生かす」という事に決まりました。
これなら、ルールを破りたくなることもなく、誰かが我慢することもなく、豆も無駄にならず。この件についての「ごめんなさい」は今後言わなくていいしくみができました。
「自分の思いを素直に伝えて、相手がきちんと向き合って考えてくれる」という体験を積み重ねていくことで、疑問に思ったら勝手にやらずに相談する、ということもBさんは少しずつできるようになってきています。(本人は今のところ無意識のようですが)
最後に1~3を繰り返すについて。
しくみを改善してみても、うまくいかない場合があります。実際にやってみると新たな問題が出てきたり、以前のやり方のほうがまだよかったな、と思ったり。
そんなときには、また1番最初に戻ります。
一度考えはしたが、本当に解決すべきなのか。それは今すべきなのか。
ヒアリングはしたが、本人にとっての本当のところを聞けていたのか。以前とはまた状況が変わっていないか。
今回のやり方がまずかったとしたら、別の方法はないか。
あらゆる方法を試してみてもうまくいかない時は、課題となっている作業をやめてみる、というのもありです。
どうしても不得意で向いていないという時もありますし、いつか乗り越えた方がいい課題でも、今は難しいという時もあります。
ただなるべく、結果はどうあれ課題と付き合い切る。そうすることで、確実に力がついてくるのを感じています。
「力」は利用者さんにはもちろん、支援員の私にも、ついてきます。いくつもの試みが全て失敗に終わったとしても、経験という宝が手に入ります。
うまくいかなくても、「このやり方はよくなかった」という事が分かっただけ良い、1マス前に進んだのだ、ということにしています。
以上が、「ごめんなさい」の話、の「実践編」でした。
今も現在進行形で、いろんな課題とこのやり方で向き合っています。順調なものもあれば、難航を極めているもの、今だ試行錯誤中のものも多くあります。
やってみて思うのは、何か起きたら、注意して、謝ってもらうほうが現場はとっても楽だ、ということです。
「ダメでしょ」「はい、ごめんなさい」
これだけで終わりです。
ただ、根本的な解決がされなければ、同じことの繰り返しになり、結局どこかでツケが回ってくるし、そこに利用者さんの自立はありません。注意し続けているうちに双方のストレスもたまってきます。
そしてすんなり謝ることが出来ず疑問をぶつけてくれる利用者さんは「やっかいな人」になり、分かっていないのか我慢してしまっているのかすぐに謝ってくれる利用者さんが「いい子」とされてしまう。
それはどちらのパターンも本人の可能性を閉じてしまうことになり、幸せな結果とは言えないのではないでしょうか。
自分が心を悩ます小さなこと(とされてしまってきた事)にもきちんと向き合ってくれる人がいるんだ、自分も向き合っていいのだ、と感じてもらえる事が、成果としては何よりも大きいです。
失敗や疑問などのつまずきや立ち止まりは、健全に向き合えば成長へのきっかけに出来るはずです。
周囲に叱責されすぎたり、細かいことだから気にするなといつでも大雑把に励まされ続けてしまうと、「自分がおかしいのかな?」と人は自信をなくし、変わっていけるチャンスを奪ってしまいます。
そのように分かり合えず傷ついていくことはとても辛いことで、自分の心を守るために考えることそのものをやめてしまう人もいます。
「ごめんなさい」の削減をやってみると、ひとつひとつの課題にじっくりと取り組むことになり、結果として支援側も利用者側も少しずつスキルアップしていくことができる。「ごめんなさい」で蓋をし続けてきた自分の心を、取り戻すこともできる。というのが、私の持論です。
道のり遠くても、この「ごめんなさい」の削減キャンペーンをずっと続けていこうと思います。

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