こんにちは。こんばんはなのでしょうか。もしくはおはようございますですか?
YouTuberの人がよく「こんにちは、こんばんは、おはようございます、〇〇です」と挨拶しているのを見かけます。
長ったらしいようですが、あれはどんな時間帯に見ているか分からないから、あらゆるタイミングの人への挨拶を届けたい、ということなんでしょうね。
仕事の挨拶はなぜかどんな時間でも「おはようございます」と言ってしまいがちですし、ルールとしてそのように決まっている職場も多いですが、これは「こんにちは」「こんばんは」の響きがやさしくて、いまいち締まらない感じがするからでしょうか。
かといって、家族同士では「おはよう」は言っても「こんにちは」「こんばんは」は言いませんね。
つまり、職場でも家庭でもない場所で使うのが「こんにちは」と「こんばんは」なんですね。
そう思うと、「こんにちわ」と「こんばんわ」は仕事と家の往復のみでは生まれない言葉ということになります。
私がこれを書いている「コーヒーハウスひびうた」の隣の建物の「コミュニティハウスひびうた」は職場でも家庭でもない三番目以降の場所、「居場所」ですので「こんにちは」が毎日行き交います。
(営業時間が17時までなのでこんばんはの方はあまり出番がありません)
もともとの語源を調べてみると「今日は、いい天気ですね…」「今晩は、冷えますね…」と話していた言葉の後半が略されたものだということでした。
会話のはじまりの言葉だったということですね。
だとすると、私はこのブログは毎回、「こんにちは」で始めさせて行こうと思います。
今日のお天気を話し合うような、気軽な気持ちで読んでいただきたいです。
さて、長々と挨拶について書きましたが、というのも今日は挨拶と並んで必須?とされる「ごめんなさい」について書こうと思います。
「ごめんなさい」について、私が日々考えていること、【「ごめんなさいの話」~私の考え編~】です。
Aくんと私達が初めて会ったとき、大人達はAくんの良さとして「ごめんなさい、が言える子です」と紹介してくれました。
確かにその言葉通り、Aくんは「よく謝ることができる子」でした。
指示と違った行動をしてしまった時、言葉や動作を繰り返してしまった時。苦手なことや慣れないことに驚いて、声をあげてしまった時。
障がいの特性もあるし、慣れるまでは小さなミスは日常的にあります。
本人が意図的にふざけたり、誰かをわざと傷つけるような行動でもなく、私は叱りつけるようなことはしませんが、それらを指摘するだけですぐに「ごめんなさい」を言ってくれました。
時には私が「どうした?びっくりした?」などと聞くだけで、何かを察して「すみません」「大変申し訳ありません」と謝ってくれることもありました。
適切な場面で「ごめんなさい」が言えるのは、マナーとして、大切な事です。
「おはようございます」「こんにちは」「ごめんなさい」「ありがとう」…どれも大切な言葉ですよと、学校で教えてもらったりします。人に言われるより先に自分から、などど言われたりして。
でも、毎日Aくんからの「ごめんなさい」が繰り返されていく中で、私自身の中に芽生えてきたのは「私は、Aくんに謝ってほしいわけではない」という気持ちと、いくつかの疑問でした。
Aくんは本当にお詫びしたいという気持ちで「ごめんなさい」が言えているのだろうか。
Aくんはなぜ「ごめんなさい、が言える子」になっていったのだろう。
どうすれば、必要以上の「ごめんなさい」は減らせるだろう。
もちろん、働いていれば心では納得できないことにだって謝罪しないといけない場面もあるかもしれません。
けれど、Aくんはどちらかと言うと「怒られたとき」の反応として、また「怒られたくないとき」の防御として、言っているように感じました。
Aくんが私の予想外の行動をした時、「これはどうしてこうなったかな?」と聞くと、Aくんは「いや、ちがいます、すみません」と慌てたり、時には「いいえ、してません」と事実と違うことを言ってしまう時があります。
それから、誰かもう一人のしっかりした人みたいなのがAくんの中にいるような感じで「ダメなクセが出てきているな」「ちゃんと言われたようにやりなさい」といった風に、自分で自分に言いきかせているような、叱っているような言葉が出たり。
これは、推測ですが―
本人も家族も、その他の周囲の大人たちも、ずっと「問題行動」とされることに悩まされ、なにか良くないことをしてしまったら「ごめんなさい」を言う、というのが板についてきてしまったのではないかと思います。
そのうちに「謝ること」そのものが目的化してしまったのかもしれません。本人も周りも他人に気をつかい、委縮してしまっているように感じました。
Aくんの中にいる「しっかりした人」はもう一人の人格がいるのではなく、おそらく今まで大人達に叱られた時の台詞が彼の中にインプットされ、出てきているのではないかと私は思っています。(調べてみると専門用語も出てきましたが、お医者さんや専門家に診てもらった訳ではないので割愛します)
それは、彼に「謝りなさい」と教えた一人一人が悪いということではなく、そうしなければいけない、そのようにせざるを得ない、と感じさせるような社会の構造やまなざしに課題があるなと思います。
特にご家族は、私達支援員に対しても大変に恐縮されて、会うたびにいつも何度も頭を下げて下さっていました。
私がずっと心にひっかかっていたのはAくんが初めの面談の時に言ったという「がんばっている所をみてほしい」という言葉でした。(なにか支援するにあたって気をつけてもらいたいことはありますか?と聞いたときにそう答えたそうです)
言葉で何かを説明したりするのは苦手なAくんですが、そこには「ダメなところを注意するばかりでなく、自分のことを認めてほしい、よくやっていると言ってほしい、褒めてほしい」という切実な思いが込められているように感じました。
そのAくんの思いやニーズには大賛成だし、それが実現するように支援していきたい、というのが私の気持ちです。
これはAくんだけでなく、他の利用者さんであってもそうですが、
「ごめんなさい」が上手くなるよりは「ありがとう」が言えるように。
さらに「ありがとう」と言ってもらえる人に、なってもらいたい。
仕事をすることを通して、まずは自分自身のことを認められるようになってほしい。
そうしたらきっと、誰かのことも認めることができ、誰かの力になることもできる。
私はその手助けをしたい。
このように考えています。
だとすると、何か問題が起きた時、必要なのは謝ってもらうことではなく、どうしてそうなったのかという原因や課題の把握、どうすればそれが解消していくか、今後どのように改善していくかという未来の話をすることです。
それから、もっと大切なのは「ごめんなさい」と言わないでいいようなしくみや関係を作っていくこと。
「ごめんなさい」の語源は、免ずることで、意味としては許しを請う言葉。
「すみません」も謝罪に使う場合には「このような事をしてしまって私の気持ちが済みません」という意味です。
言葉狩りをしたい訳ではありませんが…、
利用者さんに許しを与える側、「いいこと、わるいこと」を一方的に判断したり許可したりして管理する側のみではいたくない。
「気持ちが済まない」という状況、それを伝えないといけない状況を、過剰に作りたくない。
「励まし/励まされ」の事を書いた時にも言いましたが、「謝り/謝られ」もまた、偏っているのは不自然だと思うのです。
では、具体的にどのようにしていくのか。
次回のブログでは不要な「ごめんなさい」を減らす取り組みについての実際のところ、【「ごめんなさいの話」~実践編~】を書いていこうと思います。
実践編はまだまだ日々模索中で、支援として未完成ではありますが、読んでいただけたら嬉しいです。
では、また。みなさんの願いが叶いますように。(これを書いている前日、七夕でしたので)

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